1000日の修行から見えるもの

先日、ニュースで比叡山の千日回峰行を達成したというニュースを見た。

はて、千日回峰業ってなんだろうろというのが気になり、調べてみると

大変な修行だということがわかった。人間離れしているその修行を達成したひとは

何を考えて、何を思うのかを知りたくなった。

 

達成出来なければ死ななければならない

 

千日回峰行というものは、どんな修行なのかざっと説明すると

1000日ということで、1000日連続して行うのかというと違う。

 

5月から9月の期間、毎年120日間を目処に連続して行い、8年くらいで満行。

行の内容は

1日で48km金峯山までの道のり。出発前に滝行で身を清め

み支度をして深夜12時半ごろから歩き始める。

金峯山を折り返しに午後3時半に寺に戻るのだ。

その間に118箇所の神社や祠を一つ一つお参りしながら行っていく。

歩いている間のたべのもはわずか、おにぎり2個と水500mlだけ。

 

帰ってからは、いつもどおりの作務を行い3〜4時間の睡眠をとり、明日の行に備える。

体調が悪かろうが、雨が降ろうが、台風が来ようが、たとえ槍が降ろうが、、、

どんなに辛く苦しくても歩かなければならない。もし修行が出来なくなれば

その場で手持ちの紐を使い、首を‥もしくは小刀で腹を切る。

と、こんな内容である。

 

ニュースで報道していた千日回峰行は、京都にある比叡山延暦寺で行った行で

ぼくが購入した本の千日回峰行は奈良県吉野は金峯山寺の峰行のことだ。

お寺さんがそれぞれ違うが、比叡山の千日回峰行は戦後で14人目

金峯山寺のほうは、1300年前で2人目、ということだ

金峯山寺は標高差、距離がともに長く過酷な修行ということ

 

人間離れした修行。達成した先にはなにがあるのか

 

以前、皇太子殿下がお寺に来たときのこと

『千日回峰行をしたらどうなるんですか』という問いかけがあり

問いに対して『千日回峰行を満行したものは阿闍梨(あじゃり)と呼ばれますが

社会的には何の価値もないのです。』とおこたえしたそうな。

 

僕たちが、日々生きるなかで資格や、昇給、転職、また地位や名誉と呼ばれるのも。

誰よりも辛く、長い修行をおこなって千日回峰行を満行しても社会的には何の価値もないんですよ?じゃあ、なんのために修行を行うんだという話。この修行を達成したら

『すごい』とか賞賛されてちやほやされるけど、そういう肩書きみたいなものすら捨てて

この行から自分自身を厳しく見つめ直していくことが一番の目的だという。

 

日々、生きているという意味

 

僕たちは、自分の心のなかにある欲を満たすために

行動して、夢を叶えようと奮闘するんだと思う。

誰が、どんなに辛い修行をしようが、どんなに頑張る努力をしても

他の誰かは見ていないし、気にしないのだ。

この千日回峰行を達成しました!おおすごい!!、、、で?どうなるの?

あの人は億万長者になった!とみんな羨ましがっています!、、で?どうなるの?

 

この阿闍梨さんは、千日回峰行のなかで、多くの人のためになるように行をしたいと言った

自分のための修行ではなく、人の役に立ちたいと言って始めた行だった

これは人のための努力でもあるのかと思った。

 

 

大切なのは、最後に残るのは

自分の心がどうあるべきか

 

便利になった今の時代、便利なモノが溢れる

欲望やモノにとりつかれた僕たちの心は

いつの間にか、足りない、足りないというこころの貧しさが大きくなっていた

自分のためにと生きることが当たり前と言われる中で

人のために頑張ってもいいんじゃないか

もっと人と人との繋がりを大切にしよう、そんなことを思い出させてくれる一冊だ

風や光、水や自然に感謝しよう。人の繋がりに感謝しよう

この瞬間生きていることの奇跡に感謝をしよう

 

そろそろ、ここらで心の点検をしてみようとおもう。

 

 

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